メラーおばさん(ドイツ留学時の失敗談!)

東洋鍼灸専門学校・三年生在学時の学友誌『道友』に掲載された拙文

 

全く予期せぬドイツ行きを命じられたのは、出発前の1ヶ月前であった。ドイツ語のリンガフォンを購入はしたものの、慌しい準備の日々で、「イッヒ・フロイエミッヒ・ジー・ケネン・ツーレルネン(はじめまして)」を覚えたのもドイツに向かう機上というありさまだった。

 

メラーおばさんの家の近所

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ハンブルグの北、約100kmの人口20万人ばかりの小都市、キールの駅から乗ったタクシーを降りて、静かな住宅街の一軒家の門を通り、スーツケースをゴロゴロと転がしていると、サッチャー前首相、そっくりの50代半ばの婦人がニコニコ笑いながら近づいてきた。メラーおばさんだった。

毎年のように海外からの留学生を一部屋に間借りさせている彼女は、五十の手習いで英語を勉強したとのことだが、何ともたどたどしい。いきなり言われたことは、このキッチンのものはすべて自由に使ってよいから、料理は自分で作りなさい、とのことだった。何か厳しそう、第一印象だった。

肉屋で買い物をするにも、バスに乗るにもドイツ語のマスターは不可欠であると数日で痛感することになった。いわゆるサバイバル・ランゲージである。そして、まわりはドイツ人ばかりの中で、たった一人の生活があと1年は続く・・・。

研究所からの帰り道、バルト海、そして遠くは日本にもつながっているキール湾を行き交う色とりどりのヨットを眺めていると次第に色がにじんでいくのを禁じ得なかった。


キール湾のヨット

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昼間の電子顕微鏡を使っての研究が終わると、夜はリンガフォンとの格闘となった。週一回のキール大学での英語による、ドイツ語の個人教授もとても役立っ た。やがて、帰宅後のメラー一家との談笑にも入れるようになり研究のやり取りも英語からドイツ語に次第に変わっていった。




 

研究所にて

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ドイツではドイ ツの食事をすると意気込んでいた自分も数ヶ月を過ぎる頃から、もう、我慢ができなくなった。中国、タイ、韓国料理店で、ご飯ものを食べることが多くなると 同時に、自炊するようになった。大都市ハンブルグで炊飯器と米を購入。ニンジンを刻んで砂糖醤油を入れただけの釜飯でも、とてもおいしかった。メラーおばさんの孫で6歳のフローリアンには、半分くらい食べられたりした。おばさんやおじさんは、もちろん勧めても受け付けなかった。でも、あの初日のメラーおばさんの言葉は、留学生を長年受け入れてきた経験からの愛情であったことが、その時わかった。食卓で、やがて飽きがくるドイツ料理を無理して食べさせないための・・・。

 

 

 




広場での朝市で

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留学中の数々の失敗も今考えると楽しい想い出である。
まず、ドイツに着いた当日、ハンブルグ駅からキールに向かう列車を、行き交う通行人に英語で聞いても、返答はドイツ語ばかりで、えいや、とそれらしいのに乗ったのだが、全く逆のしかもほとんどの駅を通過する急行だった。

夏期休暇が始まり、留守番よろしくね、とメラー一家は一ヶ月の長期キャンプにキャンピングカーで出かけたその初日に、鍵を部屋の中に入れたまま、玄関の扉を閉めてしまい、一ヶ月の野宿を覚悟した。幸い、近所のお宅に飛び込み、メラーおばさんの娘さんの嫁ぎ先に連絡してもらい、合鍵で助かった。

ロ ンドン郊外の国際学会に出席するための関連会社の社長さんのアテンドを勤めたが、マクドナルドでのちょっとした隙にパスポート、持ち金、カメラ等を入れた 小バッグを盗まれてしまった。その後しばらくは自分のパスポートの発行地は東京ではなくロンドンであることを心から自慢したものである。

 

 


キール市中心の商店街

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また、国際感覚を磨くことも今回の留学の重要な目的であると豪語した自分にドクターも同意してくれて、日本からでは、容易には、かなわないドイツそして欧州 各国への旅行も堪能した。ギリシアのエーゲ海のクルーズで真っ青な海と空、真っ赤なハイビスカス、真っ白なすべての建物と階段のコントラストを楽しんでい た頃、緊急の要件で会社から国際電話がドクターやメラーおばさんのところへと飛び交い埒があかず、大騒ぎになっていたことを後から聞かされたものである。

 




キール市内の一般的なたたずまい

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とにかく、気ままな一人旅で、各地の素晴らしい景色や雰囲気を楽しむことができた。ただ、傍らに誰かいて、きれいだよね、とか、素晴らしいね、とか言える相手がいないことは少し寂しかったが・・・。

ある時、研究所の女性たちがマツモトのためにランチタイムにすばらしい料理をご馳走してくれることになった。ミルヒライスである。牛乳で煮込んだご飯に砂糖、生クリーム、シナモン等を精一杯混ぜ込んだもので、ドイツではスーパーでも売っているデザートなのである。一杯目は結構いけると微笑みながら食した自分も、熱心に勧められるおかわりは、めまいがして断らざるを得なかった。

あと一ヶ月で帰国となったある日、こんな小さな町にも日本人会があることを知り、会合に行くことになった。20人弱くらいで女性が多く、ほとんどは音楽関係者でドイツ人と結婚していた。その夜は久々に日本語を話す機会を与えられ、最初何となくぎこちない言葉もだんだんと迫力を増していった。でも、それぞれの パートナーとはドイツ語であった。日本人女性と婚約中のドイツ人男性とは、世界一素晴らしいものと題して、フランスの料理、ドイツの家具類、イギリスの家、そして日本の女性・・・、お前は世界一幸せ者であるとか言って大いに盛り上がった。


研究所の所内旅行でのひととき

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三次会も終わり、タクシーに乗り込み、家にはどうにか着いたが、あまりに酔っ払っていて、鍵穴に鍵がさせない。あと3時間も待てば朝が来る。ちょっと寒いがここで寝てしまおうと目を閉じた時、がしゃっと扉が開いた。
メラーおばさんが心配してずっと起きていてくれたのだ。

研究の成果も、もちろん大事なことではあったのだろうが、私はそれより遥かに貴重な経験をしたのだと思う。すなわち、言葉や顔つきや表現形態などは違っていて も、みんな人間は基本的な気持ちの部分では同じで、コミュニケーションから生まれる感動や醍醐味は世界共通のものであるということ、そして、いざとなれば、勇気を出していろいろ自ら行動すれば、道は開けてくるということだ。


家の近くの牧場とサッカー練習場

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それにしても、ドイツのそれぞれの町の素晴らしさは忘れられない。
古城とお菓子の町が合体したような北のリュベック、雑誌で見つけた写真を頼りに手繰り当てた、城と森と湖のフュッセン郊外の小さな教会のある時間が止まった ような牧場、中世に引きずり込まれたようなハイデルベルグ、おとぎの国のレリーフそのままのブレーメン、ドイツ最古の都市で、博物館のようなアウグスブルグ、ドイツ最高峰のツークシュピッツ山への登山口で、暖かい朝食を4時半に作ってくれたりと、とても親切だった、かわいらしいペンジオンのあったガルミッシュ・パルテンキルヘン・・・もう、数え切れないほどある。



メラーおばさんやフローリアン(真ん中)

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でも一番懐かしいのは、やはり1年と2ヶ月ほど住んでいたキールである。特別 な観光名所ではなく、ごく当たり前の生活に係わった所、駅、バス停、デパート、スーパー、レストラン、文房具店、レコード店、郵便局、銀行、映画館、記念切手屋、公園、市庁舎、小さなオペラ劇場、朝市広場、研究所、キール大学、薬屋、居酒屋、旅行代理店、クリーニング屋、理髪店、ブティック、写真屋、サッカー練習場・・・どこを歩いても、あの頃が懐かしくよみがえってくるに違いない。

そして、ドイツでの生活の拠点となった、メラーおばさんの家、そして、メラーおばさん・・・。

それらの素晴らしい想い出の場所を、近い将来訪れることを実は楽しみにしている。


その時は、傍らに、愛する人と共に・・・。

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このページは、greekが2004年6月13日 20:28に書いたブログ記事です。

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